昭和49年09月29日 教祖生誕祭



 先日お道の新聞が参りましたが、迂闊な事といえば迂闊な事ですけれども、教祖様が御誕生になられて今年が満百六十年になると書いてあるのを見てから、ハッとするほど驚きましたというのは、私が今年が満六十才で御座いますので、丁度教祖様が百年経たれた時に、私が誕生した事になります。矢張り十年又は百年千年と言う様に、一つの大きな節と申しますか、そういう区切りの年にいみじゅくも私が生れておったと言う事に、何か有難いものを感じると同時に、特別の何か責任を感じさせられたので御座います。
 今朝から朝の御祈念の時に、今日の生誕祭の事を神様に御礼、お願いをさせて頂いておりましたら、『永遠の喜びと言う事を頂きました。喜びにも色々御座います。今よく申されます刹那的な喜び。又は自分の都合の良い時には喜べるけれども、自分に都合が悪いと思うたら、喜びの段ではない。不平不足が出ると言った様な意味の事ではないと思います。永遠の喜びというのは、これは信心から生まれる、いわゆる生きた信心から生れる。生きた喜びの事をそういうのだと思います。
 何かの本にあんな歌が出ておりました。「行く先は地獄の果てかは知らねども、喜びだけは持っていきたい。」というのです。行く先は地獄の果てかも分からない。けれどもどういう中にあっても、喜べれる信心の喜びだけは持っていきたいというので御座います。先日からもう三、四日になりますか。私は大変悲しい難儀な問題をお取次さして頂きました。丁度私がちょっと出かけておりましたその後に見えておられて、随分私の帰りを待っておって下さった。
 しかし縁というものは不思議なもんですね。その方が電話を掛けられたんです。「もしもし、金光教(かねみつきょう)さんですか。」と。やはりかねみつきょうと読むんですよね。金光教とは。「かねみつきょうでは。」「こんこうきょうですが。」「ああ、こんこうきょうというのですか。実は三年前にここではどういう悩みでも難儀でも聞いて下さるという話を聞いたのですけれども、そういう話でも聞いて頂けるでしょうか。」と言う。お電話を西岡先生が受とります。
 「どういう悩みでも難儀でも、どう言う事であっても、親先生がおいでる時においで下されば、それに答えて下さいます。そしてそれがおかげになって参ります。「今から行っても良いでしょうか。」と言う事で見えられたのです。そして私の帰りを待っておって下さったから、もう遅かったから、あのう控え室でお話を聞かせて頂きましたら、本当に私が聞いても、貰い泣きをするような思いのお話でございました。
 その内容が余りにも深刻なので、まあ赤裸々にお話する事ができませんけれども、とにかく人間関係で悩んでおられるのです。もう本当にねこの呪い殺すという言葉があるがね、呪い殺すすべがもしあるとするならばね「私はその相手の人を呪い殺したい。」と。恐ろしい事ですね。人間が人間を私は憎むと言う事は。矢張り呪い殺すと言う事に通ずると思うです。この世には色々罪を犯します、人を傷付けたり殺したりいたしますと、おかみがあって、それぞれにお仕置きに遭います。
 けれども「心で殺すのが一番重い罪じゃ」と教祖様は御教えしておられます。心で憎む心で傷付ける。あの人からああ言われたら心がもう傷ついたと。それは誰も知りません。けれども神様はそれをじっと見ておいでであり、聞いておいでであるのでございます。「心で傷付けたり心で殺したりするのが一番重い罪だ」と教えておられます。私はその話を段々聞かせて頂きまして、どこからお話をして良いか分からない位でした。
 けれども色々お話をしておる間に、もう終のバスの時間になりましたので、お帰りになりました。「とにかくね一回二回じゃない、とにかく朝の御祈念にでもお参りしておいでなさい。」所を聞きますと丁度、久留米の古賀さんという人の近所に住まっておられる事が分かりましたので「その古賀さんに、毎朝夫婦でお参りになりますから、あちらへ行って、便乗させて貰いなさい。」と「そして五時の御祈念にでもお参りしていらっしゃい。そしてお話を頂いておるうちに、心が開けましょう」と。
 言うてその時にはまあー別れました。それから一日経っても二日経っても見えませんから、私は古賀さんの奥さんに、朝参った時に「あんたの近所から、こういう人が参ったから、お話に行ってやって下さい。大変難儀な問題なんです。本当に信心しなければ助からない人なんです。しかもその人だけじゃないのです。その人に恨まれておる人は、憎まれておる人は愈々助からないのです。どうか一つあなた行ってあげて下さい。」と言うて、申しましたから、まぁ早速その日にそれを伝えにおい出られた。
 「それでは明日の朝参りますから、どうぞ便乗させて下さい。」と言う事であります。明くる朝行かれて、そして古賀さんの話を聞かれて、いわば金光様の信心を、言わば本当に有難い信心だなと分かられたというのです。というのはその古賀さんという方は、熱心に御主人が信心されます。この菊栄会の会員でもあります。所が丁度半年くらい前だったでしょうか。火事に遭われましまして全焼でした。丸焼けでしたそれから古賀さんの信心も一段とかわらせて頂いたが、私はその時の事を思いますのにです。
 只今」外から帰ってきた。皆留守だった。「今帰ってまいりましたら、もう家は打ち上げておりました。どうぞ近所隣に迷惑になりませんように。私の家はもうこのままお取り払い頂くので御座います。けれども近所隣に迷惑がかかってはなりませんから。」という電話が掛って来た。信心ちゃ有難いなあ。そういう打ち上げているのを見てから、電話をかける。余裕があったと言う事がね。
 私は日頃の信心がものを言うと思います。そう言う様な事に遭われておるのにも関わらず、「これほど信心するのに、おれん所は丸焼けになった。」「お父さんあんたが参ったっちゃ同じ事じゃけんの。」と言わずに家内も一緒についてくる。その上においての信心が、愈々生き生きとしてきたと言う事です。立派な御普請があっとりますので、話を聞かれると、火事になった。そしてこういう普請をしておるという事を聞いてです。「まあ、金光様の信心ちゃ、そういう難儀な事に出会ってもです。
 ひるむ所か却って有難うなっていく。今迄信心がなかった家内までも一緒についてくるほどしの御教えというものは、どういう教えですか」というて本気で求められるようになった。信心しよるから死にはせん。信心しよるから交通事故なんかに遭いません。それは、本当にありませんよね。けれどもね、それは、絶対という事ではありません。私は去年、千台からの車のお払いをさせて頂いております。
 その中の丁度一部が事故にあった。しかもその事故は、自動車は例えば大破しておりますけれども、人間だけは不思議に助かったと言う様なです。今は大体自動車を七台を持っておるならば一台は、一年のうちに事故にあうたというデーターが出ておるそうですというのにです。千台の中にほんの数えるだけ。いわば事故にあった。その事故もです。人命にさわるような事がなかった。今年の六月三十日の大抜いには、そう言う様なおかげを受けておるから、矢張りおかげを認めなければいけません。
 それを又は確認させて頂く所からです。日々御守護を受けておる。有難い所謂神恩報謝の心もおのずと湧いてくるというものであります。そうしてお参りができておりましたら、昨日一昨日でしたか。丁度ここで会合があっとりましたが、その方がお参りして見えとります。そして次の方を一人お導きして見えてる。それで話が話ですから、ここでいけませんので、私の控えの方へ行って、まっ深刻なお話だろうと思うておったです。所が私がお話を聞いてたまがったと言う事は。
 「先生。この人が、私が、先日申し上げました、恨み殺したい。呪い殺すすべがあるなら、呪い殺しでもしたいと思うておった人でございます。」と言うのです。御信心の有難さが、分からして頂いてです。その方と一遍会うてみろうという気になりました。そしてお話を段々さして頂いとりましたら、何と私と同じような境遇である事を知りました。小さい時から、両親の顔を知らない。
 その後において、様々な難儀な問題を通って、今日に至って、そう言う様な恨み殺すというようなね、祈り殺してでもさして頂ける道があるなら、そういう一つの燃えるような呪いの心というものをです。人間に対して持っておった自分がです、いろいろ話しておるうちにです。私は私とあなたの事で、こういうふうに思うてせっぱ詰まって、合楽の金光様にお引き寄せを頂いたらこういう話を頂いた。又こういう御信者さんの話も頂かしてもろうたと言うて話した。
 そして私とあなたが、共々に助かっていこうじゃないですかと話しましたら、そんなら私も連れて行って下さいという事になって、今日の御参拝でございます。又話を聞いてたまがりました。その方は何と申しましたかね。血が出だしたら止まらないという病気だそうです。今の医者ではどうにもできないから、医者にも見離されておる。けれども、日頃は、バチバチしておられる。そういう難儀な病気を抱えておられるという事を聞いて、もう、愈々助からなければならないな。
 助からなければならない人の多い事を気付かせて頂きまして、縁に任せてそういうお導きができて、昨日までは、それこそ人を呪い殺すほどしの心が、今度は反対にその呪い殺そうと思っとった人の事をです。祈らなならんと一緒に助かりましょうという心。そういう心をです。我ながら自分で自分の心を拝みたいと言う様な心だと思います。信心によって、そういう心が段々育ってくる。
 今朝からも皆さんに聞いて頂いたんですけれども、金光大神様が、喜んで下さると言う事。今日は、教祖様のお生れの百六十年目に当たる。そこで今日は御生誕のいわばお祝いのお祭りをさせて頂くが、昔から教祖様の教えて下さる。言うならば「年寄りを大切にせよ。」と仰せられるからまぁ言うならば、ささやかな事ではあるけれども。信者一同真心を込めて、お年寄りの方達に、まあやわいものの一つも食べて頂こうか。
 又面白い踊りやら、浪花節やらも聞いて頂こうかというのが、そもそものかばめ時代からの、このお祭りの始まりでございます。けれども本当に神様から喜んで頂くと言う事は、ただそう言う事だけではない。それこそ私共の心の中に永遠に喜べる心。おかげを頂いてです。言うなら今までは不平不足ばっかりの私がです。毎日有難い感謝の日々を送っておる。私の心が神に向こうて日々進ませて頂いておるそういう心。
 「死したる後、神に祭られ、神になる事を楽しみに信心せよ。」と仰せられるが、自分の心の中に、段々喜びの心が広がってまいりまして、このまま行くならば、もう極楽まで、わけないぞと、自分で思えれるような心の成長を願うていくという事こそを、一番教祖様はお喜び下さる。神様あなたのおかげで、こういう喜びの生活ができるようになりましたと言う事こそ、鯛のお供えよりも、赤飯のお供えよりもお喜び頂けるんだというお話を、今朝からお話させて頂いた。
 真宗仏教の宗祖でありますところの親らん聖人様が御修行中に、山伏で弁円という人がおりました。当時の信仰宗教であるところの、いうなら親らん聖人様のお教えを頂こうという人が、沢山広がっていくわけです。そこで山伏さん達が言うなら、飯の食い上げになるような感じがするわけです。仏教に取られてしまう訳なんです。話を聞けば聞くほど、人が助かるのです。そこで恨み妬みというですか。その弁円が親らん聖人様をあやめよう、殺してしまおうという心を起こします。
 ある夜聖人様がお出かけになっておられる帰りを待ち伏せて、山の中でその帰りを待たせて頂いておりますと、峰の上で南無阿弥陀仏の声がする。峰の上に登ってみると、確かにこの辺で南無阿弥陀仏の声がしておったと思うておったら、もう谷間の方で南無阿弥陀仏の声がする。上に行ったり下に下ったりしながら、とうとう夜が明けた。そして思うた事は、この人は大変なお徳を持った人だと言う事に気が付いた。
 そこで自分の持っている弓矢を投げ捨てて、親らん聖人様の前に土下座をして「実は、私はあなたを殺そう、あやめようという恐ろしい心を起こしておりましたけれども、こういうあなたのお徳に触れては、もう私は山伏をやめます。そしてできるならばあなたのお弟子にして下さい。」と言うてお弟子になったという話でございます。それから幾年かして、又、お聖人様がお出かけになった。夕方になり日も暮れてきた。あまりにも遅いので、聖人様のお出迎えにでらして頂いた。
 それが丁度幾年前聖人様をあやめよう殺そうと思うて出かけた。その丁度山道に出た。もうそれこそ考え深いものであったでしょう「この道は今も昔も変わらねど変わり果てたる我が心かな。」という歌を聖人様に捧げたでしょう。素晴らしいですね信心で心が一変すると言う事は。何年か前は聖人様を殺そうとまで思うておった。その聖人様を今は聖人様の御弟子となって、聖人様のお帰りを迎えに出ておる自分が嬉しかったんです。自分の心が有難い意味合いにおいて、変わり果てておる事に有難かったんです。
 そういう心です私は永遠。永劫喜べれる心だと思います。ただ刹那的なちょっと温泉に行って、今日は極楽じゃった。帰ったらもう地獄ではいけません。自分の都合の良か事だけははぁ良かった。嬉しかったと言うけれども、都合の悪い事はもうそれを人のせいにしたり、それを悔やみの種にしたり致しましてはです。私共がここで本気でです。いうならば是からの人生、又今までの人生を振り返ってみたり是からの事を考えてみて、ここに一つの今までの生き方に終止符を打って、本気で喜びの稽古をさせて頂こう。
 いや喜ばなければならない。この世には私共がその喜びを受けに来たのだ。この世に生れてきたと言う事は、魂を究めに来たのだ。これはもう絶対の事なのです。仏教の言葉を借りると、千年万年もかかって、ようやく人間に生まれ変るという。それこそその間には言うなら、馬に生まれ変ったり猫に生まれ変ったりまでもするという。そしてようやくこの世に人間として生まれ変って、この世で魂を清めてそして、この世で信心の喜びを頂いて、そして永劫あの世で喜びの世界。
 極楽の世界に行けれる事のために生れて来たのであるのに、もうこの世は太く短くとか、もうとにかく正直者がばかを見るような時代だとか言うてです。喜びという方に、そっぽを向いておるといったような事では、本当に考えてみても、恐ろしい話であります。最近、巷で、いろいろ噂される中に、もう、地球は二十五年しか命がないと言われております。地球上の人間が破滅する。なら、今日のお年寄りの方なんかは、「二十五年先なら良かたい。もう俺どんなど死んでじゃから。」と。
 けれども孫がおりましょうが。可愛い子供がおりましょうが。ね。私はもし例えばです。そういう地球が破滅する。人類が破滅すると言った様な事が起こったに致しましても、魂の世界だけは、滅ぼす事はできません。壊すことは出来ません、その言うならば魂の世界に、私共が行かせて頂いた時にです。それこそ行き先は地獄の果てかは知らないけれども、どういう中にあっても、喜べる心だけは持って行きたいという念願をた立てさせて頂いて、そういう日々の信心の喜びをです。
 生活の上にも又はこの喜びを育っていくならば、極楽行き間違いないと自分で確信のできるほどしのものをね、言うなら今からでも遅くない、和賀心を本気で喜びの魂の清まりに精進しようと言った様なです願いを立てさせて頂くと言う事は有難い。その事が教祖様の御生誕を境に、そう言う事を分からして頂いたと言う事になったら、教祖様が愈々お喜び頂ける事だと思います。今日はお祭りの後を只今お年寄りの方達に、今日は御参拝頂いておりますのでいつものように、あちらで浪花節を聞かせて頂くそうです。
 それから心ばかりの食事の準備。お酒肴の準備を致しております。皆んなの真心一杯の事で御座いますから、その真心を受けて頂いて、それからお下がりを全部、沢山お下がりを頂いておりますので、丁度皆さんに一点づつ位行き回るようにあるのです。今朝からです「これは皆さんに福引きなんかどうかしたならどうだろうか。」と「そうさして頂いたらいいですね。」と言うて数を当たった所が、丁度五十幾つあるとこう言う。そんならあれを一つくじ引きにさしてもらおう。
 それをなら私が神様にお願いをさして貰うから、いろいろな例えば商標とか酒とかおこしとかあります。その中からです。御神意を分かるように、私がお願いしよう。それで皆さん。自分のくじに当たったのがです。例えばお酒であったとするならばです「有難喜、勿体な喜、畏れ多喜。」と仰せられるから、神様が一番喜んで下さる心の状態に、自分がある事だと悟る人もあるでしょう。いや自分の心の中に、有難喜勿体な喜、畏れ多喜の三喜がないから、これは神様がそういう。有難喜。
 勿体な喜の心を作れと言うておられるんだという風に悟らして頂いて、もしお分かりにならない時には、私が御結界に奉仕している時にです。おいで頂ければ的確に御神意を、神様のお心をその皆さんが受けて下さった景品の中から頂きたいと思います。これは神様が皆さんに直接のお言葉だと信じて頂いて間違いないです。どうぞそう言う様な祈りを込めさして頂いての、これからの会になりますので、どうぞよろしくお願い致します。御挨拶が長くなりました。